バブルと経済政策

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    バブルと経済政策

    バブルと経済政策
    バブル景気が膨張を続けてしまい、また、バブル崩壊からの脱却に長期間を要した原因については、政府・日銀の経済政策の失敗が指摘されている。
    まず、バブルの発生については先に述べた通り、1985年のプラザ合意による急速な円高で景気が悪化することを恐れて、財政・金融政策による景気刺激が行われたことが原因とされている。
    政府は、数次にわたり経済対策を策定し、1987年5月には6兆円を上回る財政措置を伴う「緊急経済対策」をしたが、景気は1986年11月を底に既に回復していたため、景気を刺激し過ぎたという批判がある。
    第二に、バブルの膨張を抑止できなかった理由として、金融緩和を続け過ぎたことが指摘されている。
    公定歩合は1987年2月に2.5%に引き下げられ、その後1989年5月までこの水準を維持した。
    この原因としては、1987年のブラックマンデーによる世界的な株価の下落があり、日本に金融緩和が求められたことがある。
    金融緩和が続けられた国内の要因としては、第一に、政府が財政再建のために赤字国債からの脱却を目指しており、金融政策による景気刺激を求める政治的な圧力があったことがある。
    第二には、大幅な経常収支の黒字を背景とした円高圧力があったことから、金融緩和によって円高を回避しようという政府・与党などからの圧力があったことが指摘できる。
    急激な円高に苦しむ輸出企業の体力を強化するためにも金融政策は緩和的であるべきという認識もあった。
    この反省から、1997年に日銀法は改正されて、日本銀行の独立性が高められた。
    しかしバブル膨張は金融政策のみによるものではない。
    政府は、国際化によって東京のオフィス需要が急拡大して、オフィスが不足するという試算を発表してバブル期の不動産投資をさらに過熱させた。
    財政面でも、国の公共投資は抑制されたが、好景気によって税収が増加した地方自治体では地方単独事業の増加が見られ、これも景気を刺激することになった。
    地方単独事業の増加には、国の財政赤字を抑制するために地方単独事業の増加を歓迎していたという背景もある。
    また、地価の上昇局面でも、国鉄清算事業団の未利用地販売に際しては「地価の高騰を煽る」として売却が凍結されて、逆に土地の飢餓感が煽られて地価の上昇を招いたという側面がある。
    そして、地価の上昇によって住宅取得が困難となり国民からは政府に対する非難が高まったことが、不動産融資の総量規制に繋がり急速な地価の下落を招いたという批判がある。
    こうした地価に関する政策的な失敗は、マスコミや国民の感情的な批判に政府が冷静に対応できなかったという問題とみることができるだろう。


    バブルと経済政策2

    バブル崩壊後の対応では、初期の金融政策や財政政策による景気刺激が小規模であったことが指摘できよう。
    公共事業による景気刺激がその後の財政赤字の拡大を招いたという批判は多いが、当初の経済対策は財政資金の投入は少なく、対策を小出しにしたことが次第に大規模な財政刺激が必要となった一因と考えられる。
    また日銀は1991年7月に公定歩合を0.5%引き下げたが、その後の金融緩和の速度が遅かったと考えられている。
    これらの政策は外国から "Too small, Too late"(政策規模が小さすぎ、実行が遅すぎ、そのため効果的な政策ではない)と批判された。
    銀行など金融機関の不良債権問題が深刻となって以降は、早期に財政資金を投入して破綻した金融機関の救済を行うべきであったと考えられている。
    しかしこの問題でも、住専処理に6850億円の資金を投入するという政府の1996年度予算案に対して、マスコミなどは金融機関に失敗の責任を取らせずに救済のために税金を投入すべきではないなど強く反発することとなり、国会も混乱した。
    後から数十兆円の資金が投入されることになったことを考えれば、早期に公的資金の注入ができれば問題の拡大を抑制でき、結局は国民の負担も少なくて済んだのではないかという見方も多い。
    バブル崩壊後の低迷からの脱却局面では、景気の回復傾向が見られた際に、財政、金融による景気刺激的政策から景気抑制的政策への転換を早く行いすぎるという失敗を繰り返した。
    最初の失敗は財政政策の失敗である。
    1993年10月を底に景気は回復するが、政府は財政赤字の縮小を急ぎ、1997年4月から消費税率を2%引上げ、2兆円の特別減税を廃止するなど、約9兆円の負担増を実施した。
    ところが、同年にはアジア通貨危機が発生したことや、年末には金融機関の経営破綻が続いたことなどから、景気は極端に悪化することになった。
    二度目は金融政策の失敗である。
    アジア通貨危機の混乱が収まると、1999年1月を底に景気は回復しはじめ、日銀は政府の反対を押し切って2000年8月にゼロ金利政策を解除した。
    しかし、米国でITバブルが崩壊すると輸出の鈍化から2000年11月をピークに景気は急速に悪化し、2001年3月には再び実質的にゼロ金利政策に戻らざるを得なくなった。
    同時により金融緩和的な量的金融緩和政策の導入を余儀なくされた。


    失われた10年
    失われた10年
    失われた10年(うしなわれたじゅうねん、英:the lost decade)とは、ある国あるいは地域の経済が、10年もの長期に亘って不況と停滞に襲われた時代を指す語である。
     
    語源
    アメリカ文学におけるロストジェネレーションが、第一次世界大戦後の1920年代から1930年代、即ち狂騒の20年代から急転落の世界恐慌の時代にかけて活躍した経緯から、ロストジェネレーションの冷笑的で厭世的な世界観を寓喩して用いられる事が多い。
    イギリスでは、第二次世界大戦後の1946年〜1955年。
    ラテンアメリカでは、1980年代。
    特にチリの1980年代は、アウグスト・ピノチェト政権の時代と重なる。
    日本では、1993年から2004年までの約12年間→本項で述べる。
    日本における失われた10年は、バブル景気崩壊後の、1990年代中期から2000年代前半に亘る不況の時代を指す語である。
    複合不況や平成不況とも呼ばれる。
     
    経緯
    日本銀行による急速な金融引き締め(総量規制)を端緒とした信用収縮と在庫調整の重なったバブル景気崩壊後の急速な景気後退に、財務当局の失政、円高、世界的な景況悪化などの複合的な要因が次々に加わり不況が長期化した。
    銀行・証券会社等の大手金融機関の破綻が金融不安を惹き起こすなど、日本の経済に大打撃を与えた。
    これにより1973年から続いていた安定成長期は18年で終わった。
    多数の企業倒産や、従業員の解雇(リストラ)、金融機関を筆頭とした企業の統廃合などが相次いだ。
    1991年頃から始まった「失われた10年」(平成不況期)は、1999年から新世紀にかけてのITバブルを経て、2002年1月を底とした外需先導での景気回復により終結した。
    しかしこの不景気の期間は日本経済史上最長となった。
    失われた10年については研究機関や学者などが多くの研究成果を発表しており、政府も内閣府が研究会を発足させ、2007年度中に報告書を出すとしている。
    『ゼミナール日本経済入門(1999年度版)』(日本経済新聞出版社)で初めて「失われた10年」なる用語が使われた。
       

    原因
    原因
    停滞の具体的な要因として、以下の要因が挙げられている。
    資産価格の著しい低下による、バランスシートの悪化
    企業投資の歴史的な停滞
    企業の債務返済による財政支出の乗数効果低下
    財務当局の失政(景気が回復基調に転じた時点での消費税率引き上げや社会保険の給付引き締め)
    日銀の金融緩和の不徹底や物価動向に逆行する金融政策の実施(速水優総裁の主導によるデフレ下のゼロ金利解除等)
    大手金融機関(山一証券、北海道拓殖銀行、日本長期信用銀行など)の経営の失敗(不良債権処理の先送り)
    世界において相次いだ経済危機の余波(1992年ポンド危機、1994年〜1995年メキシコ危機、1997年アジア通貨危機)
     
    金融システム危機
    金融行政においては護送船団方式の行き詰まりが表面化し、以下の銀行・証券が破綻した。
    1997年11月3日 - 三洋証券
    1997年11月17日 - 北海道拓殖銀行
    1997年11月24日 - 山一證券
    1997年11月26日 - 徳陽シティ銀行
    1998年10月23日 - 日本長期信用銀行
    1998年12月 - 日本債券信用銀行
    2001年12月28日 - 石川銀行
    2002年3月8日 - 中部銀行
    2003年9月 - 足利銀行
    特に三洋証券はコール市場にてデフォルトを起こしたため、無担保コール市場が大混乱に陥った。
    これにより金融市場は連鎖的な信用収縮を招き、事態は一気に金融恐慌の様相を呈していった。

    逆援助
    社会状況
    企業においては、1990年代後半からはデフレーションに対応する形で優良企業では有利子負債の圧縮が進展し、高度経済成長末期から続いていた日本企業の過剰なレバレッジ体質が抜本的に転換され財務体質が改善された。
    この企業行動は当時においては停滞の要因であったものの、財務基盤が強化された強力な企業群が形成された。
    流動資産を抱え込み過ぎて資本効率の低下した企業も生まれ、流動比率が高すぎる場合には遊休資産が多いとみなされ、買収の標的になるとの指摘もなされた。
    労働面では、他の世代に比較して数の多い1970年代生まれが社会に出る時期であったにもかかわらず企業が採用を削減したことから就職難が深刻化し、就職氷河期と呼ばれる状況が続いた。
    長期にわたる不景気がデフレーションを誘発し、労働者の給与は減少傾向をたどり、非正規雇用によるサービス業従事者が増加した。
    消費者の観点から言えば、デフレーションによる低価格で質のよいモノやサービスを提供する企業が増えていった時代である。
    衣料品ではユニクロが、小売業で100円ショップが広がっている。
    また、温泉宿や食べ放題などのリーズナブルなサービスも増えたと捉えることもできる。
    確かに失われた10年は日本の経済に深い闇を与えたが、バブル以前にはなかった新しいサービスや販売方法を確立したと考えることもできるのである。
    従来、不況といえば消費全体に落ち込みが発生するのに対し、失われた10年においては、従来見られなかった産業形態の発達や、特定のサービスへと顧客が集中する流行現象など、不況下にあっても好成績を出す業態の存在が注目を集めた。
    ニッチ市場や高付加価値サービスの発展、あるいは時間的余裕で経済的な不足を補う旅行形態の流行など、幾つかの特徴的な市場の動向も注目を集めた。
    またバブル景気の時代には大衆の国外旅行が急速に増加したが、この傾向は同期間に於いて「短い余暇を有名な観光名所めぐりと買物で過ごす」という形態から、「多少長い余暇をあまり有名ではない名所にまで足を伸ばす」や「繰り返し特定地域に足を運び、密にその地域を楽しむ(リピーター)」という形態も見られ、バブル景気の頃に主流であった気忙しいパック旅行から、「豪華客船の旅」や「貧乏旅行」、青春18きっぷなどによる「鉄道旅行」などのようなシフトも見られる。
    この中には定年退職した者の夫婦旅行や失業者の長期旅行など、従来では「慎ましく暮らす」という状態が当然であった人たちによる旅行形態も含まれる。
    どのような援助が好ましいのか 逆援助に関して考えてみよう。

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