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バブル景気
バブル景気(バブルけいき)とは、日本の経済史上で、1980年代後半〜1990年代初頭にかけてみられた好景気である。
日本の景気動向指数で見る景気循環における第11循環の拡大期にあたる。 指標の取りかたにもよるが、概ね、1986年12月から1991年2月までの4年3か月(51ヶ月)間を指すのが通説であり、2002年2月から2007年11月まで69ヶ月弱続いた長景気(仮称・いざなみ景気)やいざなぎ景気(1965年11月〜1970年7月の4年9か月(57ヶ月)間が通説)に次いで戦後3番目に長い好況期間となる。
過剰な投機熱による資産価格の高騰(バブル経済)によって支えられ、その崩壊(バブル崩壊)とともに急激に後退。 同時に1973年より始まった安定成長期も終焉を迎え、その後の平成不況(複合不況、失われた10年)の引き金となった。
平成景気とも呼ばれるが、「平成景気」は広義ではその後の平成不況をも含む。
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名称の由来
「バブル景気」という言葉は1987年に命名されたとされ、元になった「バブル経済」という言葉自体は、1990年の流行語大賞の流行語部門銀賞を「受賞者:該当者なし」(誰が最初に使い、流行らせたのか分からない為)で受賞している。 しかしこの語が広く一般に、実感を伴って認知されたのは、投機経済が崩壊したあとである。 例えば、1990年末に出版された朝日現代用語・知恵蔵1991には「バブル」という語は使用されていない。 元来、「バブル」は「泡」を意味する語なので、泡沫景気(ほうまつけいき)と呼ばれることもある。
経済学者の野口悠紀雄は、1987年11月に「バブルで膨らんだ地価」と言う論文を、『週刊東洋経済・近代経済学シリーズ』に掲載しており、“私の知る限り、この時期の地価高騰を「バブル」と言う言葉で規定したのは、これが最初だ”と述べている[1]。
一方で景気の後退の様は「バブル崩壊」と言われ、以後の10年にわたる不況へとつながる。
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要因
バブル景気の引き金になったのは1985年のプラザ合意とされている。 当時、ドル高による貿易赤字に悩むアメリカ合衆国はG5諸国と協調介入する旨の共同声明を発表した。 これにより急激な円高が進行。 1ドル240円前後だった為替相場が1年後に1ドル120円台まで急伸した。 これにより、:
円高による打撃を受けることの予想された輸出業界を救済するため金融緩和が実施され、過剰な流動性が発生し、その資金が不動産投資や株式投資に向かい信用創造が膨らんだこと。
中曽根内閣は貿易摩擦解消の為、国内需要の拡大を国際公約し,これまでの緊縮財政から一転、公共事業の拡大政策をとったこと。
金融緩和(低金利)政策(当時国際公約と捉えられていた)が継続されるとの期待が強固であったこと。
それまでの素地として以下の要因があるとされている。
1970年代後半から優良製造業向けの融資案件が伸び悩み、銀行が不動産業や小売業、住宅への融資へ傾斜していた。
金利低下により利鞘が縮小し、銀行は融資の量的拡大で収益を確保する必要性に迫られたこと。
企業の資金調達手法が多様化し、間接金融から直接金融へ向かったこと。
企業の資金調達が容易になったことで財務体質が改善され、設備投資が容易に行えるようになったこと。
金融市場の国際化の流れから国内市場の門戸を開放せざるを得ず、海外金融機関の新規参入が相次ぎ、金融取引が活発化したこと。
「財テク」(=財務テクノロジー)に代表される企業の余剰資金運用を日本経済新聞等のマスコミが煽り、「特金ファンド」で法人の株式投資を活発化させ、個人投資家の株式投資を誘発したこと。 主要全国紙はこの頃、株式欄を拡大させ、金融雑誌や金融商品評論家、不動産取引評論家等が出現して個人の金融取引を煽ったこと。
NTT、JR、JT等の国営企業が民営化され、社会全体の企業活力が増したこと。
中曽根内閣による大都市圏内の土地容量(容積率)の規制緩和、東京湾横断道路(東京湾アクアライン)建設プロジェクトの推進、当時の鈴木俊一 (東京都知事)による「第二次東京都長期計画」による東京臨海副都心構想の具体化による東京発の不動産取引の活発化。
リクルート社の銀座日軽金ビル購入の不動産取引成功が大々的に報道され、その後の不動産取引が活発化したこと。
円高の進行で輸入に頼る一次産品(エネルギー、原材料、食料価格等)のコストが低下したことによる企業収益の拡大。
米国の不況や貿易摩擦の解消の為に輸出規制がかかり、企業は国内市場の開拓に目を向けざるを得なかったこと。
1980年代に入ってからの世界的な(物価の)ディスインフレーションの中で、資産価格(株式)は上昇しやすい状況になっていたこと。
企業収益の向上と共に個人所得も増加し、消費需要が上昇する乗数効果を生んだこと。
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展開
これらの要因が重なって日本では投機熱が加速、特に株と土地への投機が盛んになった。 なかでも「土地は必ず値上がりする」といういわゆる土地神話に支えられ、転売目的の売買が増加した。 地価は高騰し、数字の上では東京23区の地価でアメリカ全土を購入できるといわれるほどとなり、銀行はその土地を担保に貸し付けを拡大した。 資産価格高騰は資産保有者に含み益をもたらし、心理的に財布のひもをゆるめる資産効果によって消費が刺激され、景気の過熱感を高める効果もあった。 また、1986年から日本企業の欧米企業に対するM&Aがかなり進められた。
1987年に入ると現象は経済全体に波及し、土地に対する需要が高い限り決してこの景気は終わらないという楽観論が蔓延(まんえん)した。 特に株式は1987年10月に起こった米国ブラックマンデーによる世界同時株安の影響を世界で最初に脱出し、高値を更新したことから日本株に対する信任が生じた。 その後、投機が投機を呼ぶ連鎖反応が起こり、「岩戸景気」「神武景気」に続く景気の呼び名を公募する記事が、雑誌をにぎわしていた。
一方、一部の識者からは、すでに地価や株価は合理的に説明(収益還元法)できる価格を超えて高騰しており、日本経済はいつ破裂してもおかしくないバブル経済に突入していると危惧する声もあった。 そもそも日本の人口増加率が低下し、2007〜2008年には人口が減少に転じると予想されることから、土地の需要がこのまま持続・増加するはずが無いとの指摘もあったが、「世界の中心都市としての東京は今後も発展を続け、オフィス需要は拡大しつつあり、これに対して供給はまだまだ不足している」とする政府の見解をはじめとする強硬な反論が幅を利かせていた。
もともと、地価が上昇した場合はその上で操業している賃貸の工場やビルの収益率が低下するため、土地を売却し債券などを購入することが合理的になる。 この結果、高騰した土地の上で経営が成り立つ産業だけが立地することになり、やがて価格は均衡する。 しかし、日本においては土地資産などの計上が簿価で行われていたため、名目的に収益率は変わらずに土地を持ち続けることが正当化された。 加えて、簿価と時価の差額が含み益をもたらし、担保価値の上昇という形で資金を導入して経営を拡大する方向に動いた。 いざとなれば含み益を用いて解消できるとハイリスクな事業を展開したり、放漫な経営で損失が出ても重大に受け止めないなどの例もあった。 この動きの中で、日本企業は収益率を高めるのではなく総資産を増加させることを第一義的な目標とするようになった。
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地価高騰
大都市等の優良な土地の高騰にとどまらず、収益の見込めない遠隔地の土地もリゾート開発を名目に相当の値段で取引された。 こうして得た土地を担保に、巨額の融資が行われた。 土地の有効活用による収益(インカム・ゲイン)ではなく、将来地価が上昇することで得られるだろうと見込まれる値上がり益(キャピタル・ゲイン 簡単に言うと購入額と売却額の差益)を目的とすることが多かった。
土地を担保として融資を行うに際しては、通常は評価額の70%を目安に融資を行うが、将来の土地の値上がりを見越して過大に貸し付けることも珍しくなかった。 破綻した北海道拓殖銀行では120%を融資した事例もある。 単一の物件に複数の担保をつけることも行われた。 背景には、金融機関の貸出競争が激化する中、潤沢な資金をとにかく運用する、貸付に回す、という金融機関の姿勢もあった。 この融資の一部は後の地価下落(担保価値が低下)によって不良債権となった。
道路用地の取得価格も高騰し、第二東名高速道路などの建設に要する資金の増大を招いて、日本道路公団の経営圧迫の一因ともなった。 高価な土地が障害となって、地方公共団体の公共事業が進められなくなる事態も生じた。
地上げ
潤沢な資金を背景に大都市の再開発の動きが活発になった。 都心の優良地区には、地権が細分化された上に借地借家が多数混在し、権利関係が複雑に絡んでいるケースがあった。 日本においては、借地借家法によって借主の権利が保護されていたため、土地をまとめて大規模開発をするプロジェクトは必然的に推進が困難となった。 そのため、大都市周辺の土地取得のため、大手不動産会社を代表したり、依頼を受けた地上げ屋(主に暴力団員)の強引な手口による「地上げ」が行なわれるようになり、社会問題となった。
しかし、計画を完遂できないままにプロジェクトが中止されるケースも多数生じ、バブル崩壊後には往々虫食い状態の利用しにくい空き地が残されることとなった。 これらの空き地は「バブルの爪あと」などとも呼ばれる。
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